【書評】『神経ハイジャック』マットリヒテル

自動車の運転中、なにかに気を取られてヒヤリとした経験は誰にでもあるはずだ。

 

それは、道路沿いのある看板かもしれないし、カーナビを操作中かもしれない。はたまた、飲みものを飲んだ直後かもしれないし、道を歩くきれいな女性に気を取られた時かもしれない。

そして、これらのどれにもまして携帯電話の使用は運転者の注意を強力に惹きつける。

 

2008年頃のアメリカでは、ほとんどの州において、運転中の携帯電話の使用は刑事罰の対象ではなかった。

正義感の強いある警察官が、立件に向けて動き出すも、前例もなければ、量刑もどの法律を適用すればよいのかもわからない。

物語はそんな状況の社会で始まる。

 

モルモン教の布教が夢だという地元じゃ評判の好青年レジ-・ショーが起こした事故は、当時のアメリカで普通に起きていたありきたりな交通事故の一つに過ぎなかったのかもしれない。

しかし、自分の起こした事故と向き合い、人生をかけて贖罪を続ける彼の活動や、被害者家族とその支援者、裁判官、検察官それぞれが彼を通して自身の正義を問い直して動いたことで、アメリカ社会の不注意運転についての状況は少しずつであるが、変わりつつある。

 

神経ハイジャック――もしも「注意力」が奪われたら

神経ハイジャック――もしも「注意力」が奪われたら

 

 著者は、自動車の不注意運転に警鐘を鳴らすニューヨーク・タイムズ紙での一連の記事で、2010年にピュリツァー賞(国内報道部門)を受賞した。

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テクノロジーが人間の注意力に対していかに強力な影響を与えるのか、マルチタスクがいかに人間のパフォーマンスを低下させるか、アテンションサイエンスに関する当時の最新の科学的知見が随所に紹介されている。

 

また、その結果としていかに簡単に一瞬で多くの人の人生を大きく変えてしまうのかについて、登場人物の一人一人の人生を詳細に追いながら描いている。

時間の加害者、被害者、そのどちらもの家族、被害者家族の支援者、目撃者、警察官、州判事、そして郡検事、それぞれの生い立ち・幼少期のトラウマ・価値観を丁寧に描き、見事な人間ドラマとなっている。

 

本書の執筆にあたっては、著者による入念な取材に基づいている。対象は警察の報告書、裁判記録のほか、本人たちへの対面・電話による詳細なインタビューに基づいており、彼ら彼女らから提供を受けた個人的なメモにまで及んでいる。

社会的意義のある報道とはいえ、信頼関係の構築がなければそれらの提供はなかっただろう。そして、レジー・ショーによる公開の許可がなければ、本書の完成がなかったことは言うまでもない。